第6号 H11.7


巻頭
 「ご先祖様を偲ぶ」

住職  標  隆光

  暑中お見舞い申し上げます

 夏の行事というと盂蘭盆(お盆)が思い出されます。夕暮れを待って迎え火を焚き、ご先祖様と共に現在の平穏を分かち合いながらご先祖に感謝する心の現れの行事です。
 この他にも日本人には長い歴史の中でいつもご先祖様のことを忘れないための行事を伝承し今日も受け継がれてきています。この事は自分がこの世の中で一人で生きているのではない事を教えてくれています。この世に命を与えられた感謝の心と多くの人の力を得て生かされている謙虚な心を持ち合わせた生活が本来の意味合いでもあります。
 さて、幸か不幸か今日人間としてこの世に存在していることに人はその時々に違った結論を出してしまいます。今の自分に不満があるときは、つい両親やご先祖様を恨んでしまうことはないでしょうか。「なぜこの世に自分を出現させ生を与えて育てたのか。」また、「どうして先祖の悪いところを遺伝してしまったのか」とか、自分の生前に文句や責任転嫁をしてしまいがちです。
 仏教ではこの世は辛く苦しいことが大半であると説いています。それは四苦八苦の苦行から抜け出ることはできず、生涯その苦しみの中に身を投じなければならないと云うことです。
 よく出生の判らない占い師や霊能者が直ぐに「先祖の祟りがある」とか「先祖供養が足りない」と言って高額なお祓い料を請求する悪徳霊感商法が取り立たされますが、至って遺憾に想います。このことは仏教の教えにも「ご先祖様は大切にし、供養を欠かさない」とされていますが、祟りとしていろいろな災い事が起こる事は決してありません。事実、先祖供養が足りないのであれば、災い以外の形を持って、気づかしてくれるものです。
 「我が家には仏さんが居ないから」を理由に盆飾りをしないのは仕方ないにしても、ご実家でご先祖様をお呼びしている筈です。お線香を上げ家族親族の平穏を願い、手を合わせることも日本人としての大事な精神の一つだと思います。


心の教育 6

  「不登校になる原因」

 六月二十一日付けの山日新聞の『私も言いたい』欄に「不登校原因は親の過保護に」の見出しを見て熟読した。それはこの投稿をしたのが(南巨摩・元不登校生、18才)と記されていたからである。その記事をご紹介します。

 この子は不登校の原因は親の過保護が原因であり、その育
てられ方から性格は内向的になり、無気力な生活態度から学校に行って自分を向上させ一人前の大人になるべく切磋琢磨する気持ちも薄れ、強いては自らの人生にも夢も希望も持てなくなる。結論は子供を甘やかして育てるような親は子供を産む資格はなく、その結果この様な親に育てられた子供はかわいそうであるとしています。
 さて、お子さんをお持ちの皆さんのご家庭はいかがでしょうか。その通りといえるご家庭はありましたでしょうか。
 投稿の元不登校生は現在はどうされているのでしょう。高校三年生で学校に行くようになったのでしょうか? それとも学校は卒業か中退して社会へ出たのでしょうか? どのように心の治療をしたのでしょうか。文面の中ではゆっくりと家庭の中で癒すしかないとしています。どのくらいの時間とどんなきっかけによって立ち直ったのでしょうか。個人論ならば千差万別あるように、それを一般論にするにはそれなりの研究や統計が必要であったりします。
 自己中心的な考え方の人の多くは自分は悪く無く、悪いのは自分以外の人や物の所為にする傾向があります。自分には誤りはなかったか、これからどうしたらよいのか、自分なりに答えを見つけていくべきだと思います。
 ここ数年来、不登校で悩む信徒の親御さんからご相談を受けた経験から次のような家庭環境が浮かんできます。
 子供の様子は
  自分にとって嫌なことが起こる(いじめ・落ちこぼれ等)
  我慢し乗り越えていくことができない
  何時も楽で気ままで自由な方を選択する
  直ぐ人の所為にして自分を正当化する
  テレビゲームが唯一の友達である。または悪友がいる
  注意や意見に対しては直ぐ反発し、会話にならない
 親の様子は
  子育ては母親任せ、父親との会話が殆ど無い。
  顔を合わせれば「勉強しなさい」と子供に言う
  子供の考えていることを理解してあげない。
  子供を誉めたり、長所を認めてあげない
  何を言っても駄目と諦めている。
 子供と親の関係は小さい頃からの積み重ねです。どちらにも誤りがあるのは事実で、どちらが悪いのかという結論を出すのではなく、これからどうしたらよいのかを考え一日も早く解決することが望ましいと想うのです。
 因果因縁の法則に則れば、原因となるものには現在日本の社会構造や学校教育自体も大きく影響しあっているため、一言でここに原因があるとは言えませんし、各家庭環境によっても問題点は違ってきます。どうしたらよいのか壁にぶつかってしまった方がおいででしたら、どうぞ明王寺の門を叩いてみて下さい。


健康長寿の実践

  「ボケ防止とポックリ死」

 お年を召された方の心願は「どうかボケませんように」と「長患いをせず死に際はポックリ逝けますように」と思われる方が非常に多いのは長生きのツケと昨今の過剰医療の結果とも思われます。
 誰でも元気=健康で生涯を全うしたいと考えるのは常ではありますが、思わぬ大病から若年で命を落としてしまうこともあります。その反面、五体満足であっても急に脳を働かさないようになれば「ボケ」の症状が現れてくるのは高い確率で存在しています。そんな中で自分の生涯を考えることも現代人の努めかも知れません。なぜ日本人は長生きになったのか。それは日本国家の状態から見れば年輩の方たちの助言やお手本が必要な時代だからとも思えます。
 人それぞれに人生観は違います。今後は老後の生き方も自分なりに計画(目標)を立てて、平穏な老後と幸福感を得るための時間にして頂きたいと思います。臨終に至る直前に「自分人生は良かったと」言える様な生涯が最高の幸せだと思います。悔いとか未練というようなものは若い人の死にはあっても、年輩の方の死には持たれない方がよいと感じます。
 仏教の考え方では「諸行無常・是生滅法」(存在しているものは必ず滅する」の教えの通り永久に同じ姿・形で存在し続けることは不可能なことです。ですから自分の中で割り切る気持ちを持ち、回りの人達もその事を理解する姿勢を持つことも大切です。更に年輩の方々の昔のことは時代遅れだからと最初から匙を投げないで人間社会の生き方(人間関係)は大きく変化していないと思われますので遠慮せずご提言して頂きたいと思います。また若い人達はどうかお年寄りの意見に耳を傾け未来の日本造りを進めて頂きたいと感じます。


幸福を考える 6

 「会話はお互いの努力で」

 誰でも人生は楽しく有意義なものでありたいと願う筈です。毎日永続的に辛い思いをしていたらその内、精神病や内臓疾患などの病気になってしまうでしょう。
 サラリーマンなどは土曜日や日曜日(定休日)が休みになって辛い思いから解放される時間を与えられています。しかし、兼業農家などの副業で、その休みを働いている人が多いのも確かです。また、女性のほとんどは主婦業の他に育児やパートあるいは農業の主力として従事しています。
 現代社会はストレスの時代とも呼ばれています。この事は自分の思い通りに物事が進まないときに強く発症します。
 生活の基盤は我が家であり、心身の安らぎの場所と気兼ねなく一息付ける場所です。よく旅行から帰って家に到着した瞬間「やっぱり家が一番落ち着く」と思ったことはないでしょうか。安らぎの場所が家であることは家内安全の証拠です。
 昔から嫁と姑の仲違いは当り前のようにされてきましたが最近ではかなり緩和されてきているようにも思います。ただ、会話を交わすことによっていざこざの原因となることをおそれて、わざと話し掛けないと言う向きも見受けられます。波風を立たさないためには何もしない方がよいという考え方だと思います。
 よくコミュニケーション(意志疎通)が図られていて、お互いの心内をよく理解できていれば、不明瞭な話の内容や言葉足らずの所を穴埋めできるものですが、日頃の関係がうまくないと補うことができずに誤解を招いたり、直ぐに口喧嘩になったりします。お互いの関係に一度ヒビが入ると修復するのはなかなか大変なことですが、双方の努力によって改善してもらいたいものです。それには自分の気持ちを素直に相手に話す所から初めて、相手の考えや立場、性格などをよく理解して、その中で相手が嫌な気持ちを抱いたりする言動や行動は慎むべきだと思います。
 昔から「嫁に行ったら相手の家のしきたりに従いなさい」と言っていましたが、現在ではお嫁さんの立場や性格などを考慮しながら、お互い腹を割って理解を深め、譲り合いながら生活をすることが一番ではないかと思います。「家の嫁は」と零す前にその嫁とうまくできない自分はどうなのか考えていただきたいのです。またお嫁さんの方も一言しゃべると裏を返されるようで「それなら初めから話をしない方が良い」と考えるのも短絡的です。ただ最低限、相手を思いやる言葉はほしいものです。相手の表情や言葉尻に気を使うことのできる頭の切れる人になってもらいたいと思います。それができないことはいくら学歴があっても人間本来の共同生活のできない愚か者ということになってしまいます。
 当寺では、人間関係をうまくやっていく教えとして「善行六訓」があります。その中に和顔施と言辞施があります。笑顔を絶やさず、優しい言葉で会話しなさいと言う教えです。
つまり笑顔のある会話には少々の行き違いや誤解があっても深い傷口とならずに即仲違いとはならないのです。怖がらず気軽に笑顔を持って声を掛けてみましょう。是非、実践してみて下さい。きっと上手くいくはずです。


真言密教とは

真言(陀羅尼)
 真言とは簡単に言うと呪文の意味もありますが、元来はインド及びチベットの言語であるサンスクリット語(梵語)や俗語が中国から日本へと伝えられています。その意味の多くは仏の呼称(名前)であったり、仏の功徳を意味するものや誓いの言葉(経文)であったりします。
 真言を唱える意味合いには仏教そのものがサンスクリット語(梵語)などの古代語によって教典は書かれているために本来の仏様をお呼びしその功徳を表して願を掛けるのです。
 例えば最初に「おん」最後に「そわか」がくると息災を意味します。薬師如来様の御真言は無病息災を意味しています。


 

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