第5号 H11.4


巻頭
 「お 寺 の 役 割」

           住職  標  隆光


 四月八日はお釈迦様がお生まれになられた日です。この日は「花まつり」とか「灌仏会」と呼んで、花御堂を作りお釈迦様のお生まれになった時の姿を小像にしたものに甘茶をかける儀式はご存じのことと思います。この儀式はお釈迦様がお生まれになられたと同時に七歩進んで、天と地を指して「天上天下、唯我独尊」(この世で唯一私が一番尊ばれる者だ)と言ったときに天から九匹の竜が現れ甘露の雨(香水)を注いで祝福したことに由来しています。これが事実かどうかと云うことよりも、お釈迦様が人間離れをしていたことを表現したかったのだと思います。お釈迦様は衆生救済のために仏界より使命を帯びてこの世に存在し実践されたのです。
 現在、お釈迦様をご本尊としてお祀りしている寺院は禅宗系の寺院です。他の宗派では浄土宗系は阿弥陀如来を真言や天台宗系の密教寺院では密教系の如来、菩薩、明王、天人、神など定まりが有りません。また、日蓮宗では仏像ではなく法華経の教えがご本尊として祀られています。このように各宗派のご本尊が違うのは、それぞれのお寺の持つ役割によって違いがあるということです。
 仏教は日本で発展し、また多く分派しました。しかし、仏教という枠からはみ出した所に行かないのは、お釈迦様の説いた教えが常に根底にあり、日本人に理解されているからだと思います。
 人間はいつも不安の中にいます。一人では生きていけないし、なかなか自分の思ったとおりになっていかないのが現実です。仏様に願を掛ける時は自分の気持ちを整理してから手を合わせるのが普通でしょう。しかし、結論をどうしたらいいのか判らなかったり、壁にぶつかってしまったりしたときは、ご本尊様の前にいるご住職に聞くのが一番でしょうか。明王寺にはそうしたお寺としての役割があります。


心の教育 5

  「家庭崩壊と学級崩壊」

 今一番問われているのは教育問題ではないでしょうか。国が良くなるのも悪くなるのもこれからの時代を背負う若者(子供)の力量に掛かっていると言っても過言ではありません。全体の学力はアップしているかも知れませんが、人間としての最低のモラルは守らなければ社会の一員として生きていけなくなります。
 今盛んに学級崩壊という新しい熟語が情報メディアに登場してきますが、その内容は「学校の中で授業が成り立たない」「先生が生徒から無視される」「注意したり指導しても聞き入れない」「授業中に騒いだり暴れる」などです。これは主に中学校や一部の小学校高学年で興っています。
 優しさや思いやりといった形で人と仲良くすることは当然ですが、まず相手の気持ちになって考えたり、言動や行動を執ることと、「我が身をつねって他人の痛さを知れ」の格言のように人の痛み(心身両面)が判る人間づくりをしてもらいたいと思います。
 国づくりの根本は教育にあると言っても過言ではないはずです。また人間づくりの根本は家庭にあると思います。共稼ぎや核家族化で子供に目を向ける時間が少なくなり、大人と子供の狭間が大きく開いてしまいました。これを打開するにはお金だけが全てではない社会環境づくりにあると思います。今までも悪かったことは反省と改革によって良い方向に進んできました。物質の豊かさは十分すぎるくらいです。今度は精神的な豊かさを反省と改革のもとに押し進めていける体制を作っていただきたいと願う次第です。


幸福を考える 5

 「心 の 支 え を 持 つ」

 人間は元来臆病で寂しがり家の動物であるとされています。特に日本人は集団の中にあった方が安心感が得られ一人枠からはみ出すと常に不安におそわれてしまいます。この事は羊や鳥の集団に似ています。諺に「出るくぎは打たれる」とありますが、あまりに目立ったり調子に乗りすぎたりしている人を戒めることに使われます。
 しかし、生涯設計を持ち、他人と違ったことをしなければならないことは数多くあります。そんなとき自分は正しい行動を執っているのか、間違いを犯して後悔しまいか、結論を出してからも不安におそわれたりします。この様なときに心の支えを持った人は安心を得られ迷いのない行動がとれます。また、何か困ったことや窮地から救いを求めたりするときなどは、一心に縋る対象物が必要となってきます。
 世界中どんな国でも何らかの宗教を信仰しています。このことは自分一人の力ではどうにも出来ないことを叶えてもらう願いがある限り人間にとって必要なものであると思います。
 明王寺のご本尊様は「不動明王」で七難即滅・七福即生の御利益とあらゆる願いを叶えることの出来る仏様とされています。皆様方も常にお不動様を心の支えとして生活され、またお不動様の御真言をお唱えすることによって諸願成就して、苦厄を取り除くことが出来ます。


健康長寿の実践

  「笑いは最高の健康法」

 日本人の平均寿命は年々延びて男76才、女82才に達しています。その要因は医療の発達(結核や伝染病の撲滅)と栄養学の浸透など健康管理が進んだことによると思われます。しかし、最近の死因の多くは脳卒中や癌などで六十代で世を去る人が増加傾向にあります。
 年を取ってから重い病気を病むとその後の人生にいろいろと制限が生じてきます。その事は自分がやりたいことが出来なくなったり、体力が衰えて行動範囲が制限されたり、食べたいものが自由に食べられなくなったりと何ともつまらない老後生活となってしまいます。
 仏教では病気による苦しみと老いて躰から活力がなくなっていくことは生きていく以上避けられないものとされています。しかし、いくら避けられないからといって若い内から不摂生をしていたのでは気が付いたときには手遅れ(短命)ということにもなりかねません。
 最近では長生きの後遺症として「ボケ」で悩みを持つ人が増えています。ボケは脳を刺激することによって防げます。といって何をするかというとまずは「会話をする」それも楽しい笑いが出る話がよいと云います。ただそれには必ず相手が居なくてはなりません。笑いを求める相手が居ないときは落語や漫才といったテレビやビデオを見て笑う事もできます。この『笑う』ことが健康へ繋がると医学でも実証されています。これは笑うことによって一種の無の境地のような状態となり、精神作用をよくして若返ったり、ボケやリュウマチなどの症状にも効果があるとされています。
 「笑う角には福来る」ならぬ「笑う角には健康来る」ということでしょうか。


仏教Q&A

脳死と臓器移植について仏教の考えを教えて下さい

 脳死の問題は臓器移植と関連する問題です。この脳死については医学的、社会通念、宗教的考えなどが総合された上で昨年法律化され、本年二月二十八日に脳死判定後、日本で最初の臓器移植が行われました。これにより身体に異常があって臓器移植に頼らないかぎり治療が出来ない人が救われる事になりました。しかし、今のところ提供する側には過去の死と判断される時の心臓停止及び瞳孔反応停止といったことが多数の人が持っている死の通念であることは否めない所です。
 仏教の教義にはこのような現代医学に関することは発祥当時は未知のことであり、他人の臓器を自分の体の中に取り入れることなど想像も成されなかったことでしょう。
 ただ、自分を犠牲にして困っている人の為になることは「善行」と言うことになります。自分の身体を提供することで他人の生命が長らえることは身施ということになるのでしょうか。この他、臓器移植に限らず、骨髄移植や角膜移植、生体間移植は以前から行われてきました。
 現時点では、そうした具体例が仏教の教義にないので簡単に確立することは出来ませんが、大乗的見地からすれば、その時々の時代背景を元に理解されていくべきです。
 今後、臓器提供が一般化するには本人と家族や親族の考え方が偏見や迷信を越えて、多くの人が他人を救おうという想いやりの気持ちが強くなってきた時に確立すると思います。


読者投稿

  六〇才の誕生日に

           櫛形町曲輪田 保坂  恵

 昭和十五年一月二日 父と母、六つ違いの兄と三人家族の家庭に待ちに待った女の子(私)が誕生した。色の黒い何処か弱々しそうな子であったと母は言う。そんな私は父母、兄に過保護に育てられ二十五年・・・。その年、彼(現主人)と知り合いました。彼と結婚したい彼となら苦楽を共に出来ると願い、父母と兄の強い反対を振り払い夢にと向かった。彼の両親、妹二人、弟と大家族の中、彼と一緒なら・・・とても幸せ¥奄゚て呼ばれる「お姉さん」の言葉も涙の出る程うれしかった。やはり私の愛する彼の家族。彼と共に愛していこう。と決心したのもあの日だった。一年後には愛する人の子供、長女・礼子が生まれ、その二年後長男・崇、六年後に二男・千之と夢のような月日が夢中で過ぎていった。千之が二才半ば私を心から愛し、心から信じてくれた父が他界。「ありがとう私のように手のかかる娘を今日まで育ててくれて、でもきっと彼と幸せになります」と霊前に誓った。
 結婚して二十年目大工である主人が世の中で一番尊敬し、師として信じてきた親方に裏切られ四千万円の借金を肩代わりしてしまった。そこから私達の家族は大きく変わってしまった。彼の愛する両親、弟妹と別れることになり肉親という大きな支えの柱を裂かれてしまった。こんないい人を騙すなんて、心の中で何度その人を恨んで泣いたことか。そんな中で彼が失った物をなんとか私自身で・・・と。彼そして子供と五人で、二十年間住み慣れた家を出ることにした。
 くずれさった大きな柱。そんな中で神様は私にその大きな柱の隅にちょっぴり幸せの小さな木の芽をくれたのです。神様はこの木を大きくするのも土に返してしまうのも、お前の努力次第だよとばかりに・・・
 私には彼を愛するという誰にも負けない力がある。その愛がある限り五人で力を合わせて、この小さな木の芽を育てていこうと思った。(愛の木)あれから数十年彼を中心に長男(大工)、長女、二男と大きな枝になり、そしてまたそこから嫁、義息子、孫と一ぱいの枝・・・。その中で六十才になった今、少しも散らない彼を愛する私の花が大きく咲いています。

筆者紹介
   現在、櫛形町登録ボランティア、   ヘルパー、ガイドヘルパー
    低学年学童保育指導員
   櫛形町曲輪田に夫、長女、娘婿、
   二男、孫三人と八人暮らし
    明王寺とは昭和五十二年、先代隆照住職の教えを心の糧にご信心いただき、
   その後もご家族、ご親戚、お知り合いと多くの方をご紹介いただいています。


真言密教とは

不動明王
  仏教に敵対するものを排除し、真言の威力を体現する仏

 元々のインドではシヴァ神の異名が不動と訳されたのが語源で、また明王とは如来の教えを守り敵対するものを降伏する働きがあるものを意味する。仏界には明王部という世界がありその中の最大力があるのが不動明王である。また、真言密教が本尊とする「大日如来」の化身ともされている。その表性は、右手に降魔の利剣を左手に羂索(縄)を持して外敵と戦い捕らえる形相である。その像の後ろには迦楼羅火炎が立ち上り忿怒の相で外敵を威嚇しているお姿をしています。
 お不動様の御利益はその性質上から悪霊退散、災難厄除、煩悩離断など内外の罪厄を焼き尽くし清浄と変える力が有ります。(七難即滅、七福即生)
 明王寺のご本尊様は不動明王ですが、この他に降三世、軍茶利、大威徳、金剛夜叉の四大明王を従えて、より強い法力を備えています。内外に厳しく誤りを正しまた、弱きを助けて遍く願いを叶える力を持っています。

 

前号へ****次号へ  「明王寺だより目次へ」  明王寺TOPへ 

 ご感想・ご質問等はこちらまで