第3号 H10.10


巻頭
  「信心と功徳」

            住職  標  隆光


 実りの秋を迎え、今年一年の天候の影響が集約されます。 遥か昔から作物の豊穣は神仏の力にすがることが多く、それは唯一、自然の力に対抗できる存在として、年の初めからあらゆる行事をおこなって豊作を祈願してきました。この事は作物が不作であれば飢えの苦しみや餓死と言う結果が明白であったり、米はお金と同等の時代背景もあったからです。現代では品種改良や計画的生産が実施されて、飢餓は想像出来ないようですが、5年前の冷夏による米の不作は安心していた気持ちを驚かされました。
 地球上に居れば、地球の気象(気候)の作用を受けるわけで、科学の力を持ってしても抵抗は出来ず、常に自然の中に生かされていることは誰もが実感するところです。
 その自然を直接相手にしなければならない職業であれば、その願いは篤敬です。自然の力を仏教では五大といって地・水・火・風・空を指します。どれ一つ平らに収まっていてもらはなければ、無事収穫や完成を迎えることが出来ません。
 人が何かを願うことは、自分のことであれ、家族や他人の
ことであれ、必ず抱く気持ちで素直な心だと思います。しか
し、いくら一人で考え、心を痛めても自分の力ではどうにも解決出来ない現実がそこにあります。
 信心とは信仰する心をいつも身につける心持ちを言い、心の依りどころであって困ったときには救いを願い、迷いから心の乱れを解くカギとなるものです。また、自分の為だけに一生を終わるのでなく、人のために常に役立とうという気持ちも失ってはならないと思います。そこに善行と言う行動や表現が生まれてきます。善行を積んだ先に功徳(徳が与えられること)が備わるのです。
 また誰にも後悔はあると思いますが、いつまでもそのことに執着して、ため息ばかりを吐いていてもいっこうに進歩はなく、暗い毎日を送らねばなりません。これから先の人生に希望を持って、辛くても笑顔を忘れず、強く生きる気持ちが大事であると思います。信心とは折れそうになる人間の心の支えとなる依りどころです。自分一人ではない多くの人の力を借りて生かされている実感と、この自分自身も多くの人に影響力を放っていることも忘れないで人生を歩んでもらいたいと思います。
 人もまた、作物の豊作を願うのと同じように、日々の努力を惜しまず、他人を憎まず、己を戒め、人の上に立った時は謙虚の気持ちを忘れ無いことです。年を重ね生涯を振り返ったときに、良い人生であったといえるように、日々精進して頂きたいと思います。


心の教育 3

    「我慢することの大切さ」

 傷害事件を起こした子供が発作的にカッとなった状態のことを「きれる」と表現していたことが思い出されます。そのきれた物とは堪忍袋の緒が切れたのでしょう。堪忍袋とは心の中にあるジッと堪える時にしまっておく袋のことですが、実際に袋がある訳ではなく、ここは我慢しようとする時にこらえる気持ちを閉じ込めておく作用を袋と表現したものです。その袋を縛って於いた紐(緒)が切れて中に堪え忍んで溜めておいた物が、ものすごい勢いで一気に飛び出してくる来る様子を略してきれると表現したのでしょう。
 この「きれる」状態のことを情動のパニック(または感情の爆発)といい、ここで言う情動とは、精神作用で感情の起伏(動き)を指しています。脳の働きの中には時間に余裕があるときは、理性を持って正しく判断できる状態にありますが、緊急を要し、また危機的状態に追い込まれると自分の意志に依らない行動を執るように出来ています。(動物的本能)
 このような感情の抑圧された中に於かれ自己を失ってしまったときに事件が起きる要因となっています。この事は子供だけに関わらず、大人の社会でも多く見られ、傷害事件の多くや幼児虐待などにも見られます。心のコントロールは日々の訓練の中にあり自分の立場と、その結果がどうなるのか、自分の気持ちの整理を常に心がける事が一番だと思います。
 また現在はストレスの時代とも言われ、生きていく上に、数多くの我慢や忍耐を必要としています。この事も「きれる」要因になっていますが、生活のどこかで具体的なストレス解消法が必要になってきます。それは家族で楽しむ時間を作り、小さい時から親子が理解し合える状態(感想を聞く等)を作っておき、子供の変化を見ながら親がコントロールする事を忘れてはいけないと思います。


    「青少年に法律の教育を」

 仏教は2500年程前にインドでお釈迦様によって生まれたことは皆様ご存じの事と思います。その当時から一つの集団をまとめようとする時は、必ず決まり事を作り違反した者には罰を与えていました。仏教では出家者に対し戒律という守らなければならない決まりがありました。戒律の戒は自ら発心して守るべき事柄、律は秩序維持の規律条項や違反した際の罰則などです。
 現在社会には種々の法律がありますが、多くは専門的です。
最近、少年犯罪が凶悪化して行く傾向に歯止めが効かないことに不安を感じます。刑事法の中に少年法という法律がありますが、これは子供が守らなければならないことが書いてあるのではなく、保護するためや事件が起きたときの対処方法が書いてあります。では子供はどんなことを守って社会生活をしていかなければならないのでしょうか。少年法の中では成人と守るべき法律は同じであるとあります。つまり二十才以下の青少年に対しても社会で守らなければならない法律は判っていてもらはなければいけないことになります。細かな法律はともかく社会迷惑や殺傷・窃盗などの刑法やその罰則や処罰は教育しなければならないはずです。
 法律を守らなかった人間には、必ず罰が下されることは当然であるけれど、どのような罰が下されるのかよく判っていないのも事実です。子供が成人するまでの責任は親(保護者)にあることは誰でも知っていることですが、野放しにしておいた子供が罪を犯したときに、やれ学校が悪いだの社会が悪いだのと責任を転嫁して、子供の健全育成が責務である親(保護者)が処罰の対象にならないのは非常に理不尽なことです。
 今の青少年は無法者とも呼べる状態にあって、自らの好き勝手(これを自由と呼んでいる)に暮らすことが人の道と勘違いしている悲しい現実です。青少年が法律を理解できる年齢につれて教育する機会を設けて貰いたいものです。


幸福について 3

  「困ったときにこそ助け合う家族」

 家族問題でご相談に来られる方のご家庭の内情をうかがうと改めて家族とは何かを考えたくなります。
 家族とは近い親族も含めて考えればよいでしょうか。
 数年前ある家のご主人がご逝去され、その後の法事の際に、葬儀の前後に家族や親族の大切さがよく判ったと話してくれました。普段は家族がバラバラで皆、別々の方を向いて生活して居るかのようであったけど、父親の入院中は全員で協力したり励まし合ったり、気持ちを一つに出来たことが悲しみの中にも別の感情が出来て有り難かったと言う内容でした。
 次に結婚相手を考えるとき、よく家柄と言うことを気にしたりします。本来、結婚は個人の問題として考えがちですが、人が成人するまでに周囲の影響を受けて成長することは判っていることです。かと言って結婚相手を家の裕福だけを考えて決めるのも間違っていると思います。大切なのは人間として優しい気持ちや思いやり、そして躾の良さだと思います。前号で子供を見れば親が判ると言う話をしましたが、その逆も真で親を見ればその子供が判ります。
 この家柄というものは、意識改革があったとしても今直ぐ変われるものでなく長い時間が必要となります。つまり何代も前のご先祖様から繋がってきているからです。そう考えると我が家は手遅れかと諦めたのでは、次の代も駄目になってしまいます。因果因縁の法則によって未来のためにも改善する努力を惜しまない事です。
 家族の大切さは必然的にそれぞれ個人の力加減が影響しあって、どちらに行くのか判らず不安定なものです。そんな時しっかりとした親のいる家柄であれば、迷いも少なくすばらしい生活を歩んでいけるのです。

  
環境と人間形成

 今の子供全員が同じ性質で同じ行動を執るとは思いませんが、修学する環境や社会環境は同じではないかと思います。唯一、私立の学校や高校においては成績の良い子は良い学校や良いクラスとして分けられ学校の中では守られています。しかし、学力の中程度の子はいつも危険と隣り合わせの環境にいます。それは「朱に交われば赤くなる」の格言と同じで朱(悪)が多いところには危険も一杯と言うことです。
 先日、あるテレビ放送で中学を卒業して高校に行かず料亭に住み込みで就職した女の子の事が放送されていました。その内容は中学時代は悪友四人組で窃盗・恐喝等警察のお世話になること20回以上であったとのこと。しかし、料亭に就職して厳しい躾と怖い店長や先輩から働くことの厳しさを躰に叩き込まれて、まるで別人のように変わってしまった経緯を見て、「人間は環境が全てだな」と痛感しました。
 人間性と言うものは環境によってどうにでもなる事の意義を「誰にも仏性あり」と説いた弘法大師様のお言葉を思い出し、人を見捨てず、救うことの大切さを改めて考えさせられました。


    殺人犯にも仏性あり

 人殺しは最大の罪とされていることは常識ですが、最近では殺した人の数まで計算されて罪の重さが違ってきています。本来、殺人はしてはいけない事であり、それが故意であったとなれば厳重に処罰されなければならないと思います。
 近年多い無差別殺人は人間を人間と思わない狂気の行動としか思えません。何かにつけて自分中心の考えしかできない短絡的な行動が多いのも残念です。自分の地位や立場が危うくなったときの口封じの殺人や怨恨によるものと、金に困っての殺人強盗などありますが、今一番世間を騒がせているのが和歌山のカレー砒素中毒事件でしょう。その裏には保険金殺人という構図も浮かび上がってきました。人間を駄目にする一番のものは「楽すること」を覚えることです。自分の思い通りにならないものを排除していく事で、誰にも束縛されない自由に生きられることを望んでしまうのです。結局世の中のしきたりやルールに着いていけなくなってしまうのです。
 弘法大師様が「誰にも仏性あり」と説かれた意味は、「母親からオギャーと生まれたときは誰もが平等で、けがれ無き心を持って生まれて来る。そこ心は仏と同じ仏性がある。しかし成長するに従って各々環境が違って差が付いてしまうが、元々は赤ん坊の時の仏性はその根底に持ち続けているのだ。従って菩提心を起こし仏の教えを実践すれば仏と成れる。(即身成仏)」と言う考えです。
 殺人を犯してしまったことを責め、罪を償うことも重要ですが、どうしてその様になってしまったのか、反省と共に再び過ちを繰り返さない為の心の改心も重要なのです。 


  交通安全祈願をうけて
              白根町の読者より

(前文略)
 この度息子の交通安全祈願をしていただいて強く心に感じたことがありましたので、多くの方々にも知っていただきたくペンを取りました。
 今年、東京の学校にやった長男が自動車の免許を取ると言うことで夏休みの間に自動車教習所に通って九月に免許証を貰ってきました。 
 早速、車選びと言うことで、父親を伴って中古車屋に行き若い人好みのスポーツタイプの車を選んできました。最初の内はぶつけたりもするだろうから、余り高くない中古車にしたのだと父親の弁。息子も買って貰った身の上、余り文句も言えそうにない感じでした。
 私の家では以前から車購入の際は必ず「明王寺さんでお払いして頂く」が当たり前になっていましたので、息子の車も当然明王寺さんで御祈願をして貰う予定にしていました。この事は息子の予定も聞いた上で予約の電話を入れました。
 予約した日の午前中に車が納車となり、その後息子の運転で私と主人も伴って約束の時間に合わせて明王寺さんに出向きました。
 境内に車を乗り入れ、本堂に上がってご挨拶をし、受付をしてから、ご住職さんのお話がありました。
 その内容は自動車を運転する為の心構えについて、ご教示を頂きました。
 一、余裕を持って運転する。
 二、運転に集中する。
 三、事故や怪我は不運による(善行を積み精進する)
この内容は教習所ではなかなか教えて貰えないばかりか、人間には心があって行動を司っていることを教えていただきました。息子も真剣に耳を傾けて聞き入っていました。
 その後、交通安全と安全運転の誓いを立てて、ご本尊様の前でお経をあげて貰い御祈願をしました。次に外に出て買った車のお払いをして貰いました。特に中古車と言うこともありましたので、前に乗っていた人のしがらみのようなものをうち払って貰い清らかな気持ちで運転したいという心持ちもありました。この間四〇分ぐらいであったと思いますが、息子にとっては今までにない時間ではなかったかと思いました。日頃、親の言うことなどさして重要にも受け止めていない向きもありましたが、ご住職さんの話の内容には素直に受け入れてくれたようです。
 帰りの車の中では、ご教示いただいたことを守りながら慎重に運転して帰ってきました。技術的には未熟であったり、様々な経験から判断できるようになっていくものだと思っていますが、大きな事故を起こしてしまったら取り返しがつかなくなりますし、何しろお不動様のお力で守って頂けたらと何もできない親の精一杯の願い事でございました。
 息子の将来や家庭円満は日頃の心掛けが何よりと、災いが降りかからないことを願うのですが、さしたる知恵もなくまじめに生活するが一番と精進しております。しかし人間弱いもので心の中ではいつもお不動様をより所にしております。
 明王寺様をいつも頼っている私どもですが、今年から檀信徒だよりを送付して頂いて益々有り難く思っている次第です。
最後に多くの信者様がおられる中で、私共と同じ境遇にあられる方もおいでと思いますが、自動車祈願から別の教えも導いていただける、明王寺さんの御祈願が一番有り難いのではないかと思います。


仏教から来た言葉

 阿吽(あうん) 阿は全ての始まりを、吽は終わりを表す。
 二人一組で同じ目的を達成しようとしたときに「阿吽の呼吸で息があっていた」などという表現をします。
 密教系寺院の山門の両脇に立つ仁王像は外敵から仏法を守護するガードマンの役割。現在では大きな工場の出入り口にいる守衛さんと言ったところでしょうか。この二体の像の違いは口の形によって大別されます。右側が口を開いている阿形と、左側が口を閉じている吽形です。この仁王門の像の名前を金剛力士と言います。金剛とは非常に硬くて壊れない物を指し、金剛石と言えばダイヤモンドのことを言います。右の阿形を那羅延金剛と言い、左の吽形を密迹金剛と呼んでいます。同じように神社の狛犬も左右に一対鎮座していますが、口の開きで阿吽を表しています。

 がたぴし
 「戸がガタピシしてうるさい」とか「人間関係がガタピシしている」と言う使い方をしますが、このガタピシとは仏教の言葉で漢字で書くと、「我他彼此」と言う漢字で書きます。
自分(我)と他人(他)が、あれ(彼)これ(此)と対立してそこにいつも争い、いさかい、もめごとが絶えない事を言い表します。「この機械は古くてガタ(我他)がきた」とか「上下関係がガタガタ(我他々々)してきた」などの使い方もガタピシの意味合いに由来している使い方です。もめ事が絶えない騒がしい、うるさい、働きがスムーズでないと言う意味も込められています。


真言密教とは

護摩修法
 護摩の歴史は古く、仏教の中で密教が確立される以前のバラモン教の火神への祭祀儀礼として既に存在しました。この火神が仏の世界では不動明王に代わって本尊として祀られ護摩修法が行われています。
 護摩祈祷の大きな特徴は火を使うことで、火には偉大な力があるとされていました。悪業やけがれを焼き尽くす事や願いを火や煙と共に仏の元に運ぶとされていたためです。実際に護摩修法の中では護摩木と共に供物として米・五穀(大豆・胡麻など)蘇油や花を捧げて燃やし、その炎に護摩札や祈願札をかざして七難即滅・七福即生や息災増益(災いを除き、幸せを増やす)を祈願しているのです。


御真言を覚え、お唱えしましょう(願い事が叶います。)

不動明王御真言(慈救之呪)(災難除け)
 のうまく さーまんだー ばーざらだん
 せんだー まーかろしゃーだー そわたや
 うんたらたー かんまん

薬師如来御真言(病気平癒)
 おんころころ せんだり まとうぎ そわか

光明真言(罪業消滅・仏法崇敬)
 おんあぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まにはんどま じんばら はらはりたやうん


読者コーナー

 俳 句

きっかけを 見つけてうれし 葡萄熟る   甲西町 井上 光子

新聞の 大きな見出し 終戦忌       甲西町 井上 光子

穂稔り 祭りも近し 案山子かな      甲西町 秋山津智義

柿一つ 供えてあるや 村地蔵       甲西町 秋山津智義

亡き母の 想い出薫る 金木犀       櫛形町 斉藤 秋子

墓参り 父母に捧し 彼岸花         櫛形町 斉藤 秋子

台風の 進路気になる 地鎮祭             標  隆光


 短 歌

蝉時雨 樹木に谺す本堂で お経の後の 法話聞き居る
                   櫛形町 市川まさる

檀信徒の皆様からの投稿(俳句・川柳・短歌・ご意見・ご感想等)をお待ちしています。


行事案内


写経会 般若心経初心者向け 参加費 千円 納経料含
      月の第三日曜日 午後一時半より三時頃まで
           先着十名 電話にてご予約下さい。
          全てこちらで用意しますが、書き慣れた小筆がある方はお持ち下さい。

 八月と十二月を除いて他の月の第三日曜日に開催します。十月は十八日です。途中から参加されても結構です。

冬至祭護摩法要 十二月二十三日(天皇誕生日)
        詳しくは十二月上旬にご案内いたします。

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