甲府盆地の南端、櫛形山の山裾に抱かれて、当山明王寺は1240年の月日を経て今日に至りました。
開山儀丹ぎたん行圓ぎょうえん上人と寺格
明王寺開祖(770年)  没年不詳
 出生は不詳 但し里人並びに代々住職の口伝によれば、藤原不比等ふひとの縁故の人という。そのことは明王寺山山頂部にある「藤塚」は上人の墓所であり、藤原氏の『藤』を用いて藤塚と称しています。
 上人は始め三論宗を学び、唐に渡り仏教の奥義を極めて帰朝し、天平神護年間に伊豆国で一寺を建立した後、北の空に輝く瑞光の源を求めんと甲斐に入り、利根川の上流で大きな滝に至り、ここが修行の適地として日夜苦行を重ねました。やがて不動明王の感応があり霊像を持して、山を下り現在の地に至りて明王寺を開創したのでした。古来から明治の頃までは6月28日を上人の命日として、儀丹之滝まで登山をしていました。
 正しくを「大聖金剛山息障院明王寺」と言い、長い寺号は古刹である証です。本尊は大聖不動明王で、他に四大明王を配しています。
 開創当時は三論宗から華厳宗東大寺末となり、やがて密教が伝えられ真言宗に改宗しました。古くから山岳修行の適地であった為、密教の教義を伝える真言宗京都山城醍醐寺報恩院末となり、修験道の道場として加持祈祷を盛んに行い、長い間甲斐国真言七談林に数えられ、法灯伝承の寺として位置づけられていました。明治27年から現在の真言宗智山派属しています。
 また、明治の頃まで末寺として、竜王新町の光善寺と信州佐久郡川上村の宝蔵院があり、法脈を受け継いでいました。
皇室武徳帰依
鎌倉・室町時代の寺領地
 49代光仁天皇(770〜81年)がご病脳の時、加持によって回復した為、小井川の庄(布施の庄)を賜う。(地蔵菩薩霊験記 第七巻六話に記述あり)
 百一代後小松天皇(1382年即位)から『大聖金剛山』の勅額(天皇直筆の額)を賜う。(当時の本堂に掲げられていたが兵火により消失)
室町時代頃から勅願寺に列せられ、菊の御紋を使用するを許されてきました。また、朝廷からの使者を招き入れる門を勅使門と呼んで、この当時造られたとされる四脚門が町の文化財となっています。
 源平の時代(12世紀)から武士が権力を持ち、武家政治が始まりました。それまでは国家安泰・疫病平癒など、国の平和を祈願する目的の祈祷が主流でしたが、戦勝祈願や武運長久なども加わってきました。特に武田家の台頭は仏教にも大きな影響を与えました。このことは一宮町慈眼寺所蔵の永禄11年3月2日の古文書に、川中島出兵の折り戦勝祈願のふれを出した内の一寺として列せられています。その後、天正10年、織田信長禁制や徳川家康を始めとする歴代将軍からの朱印状など幕府からの手厚い加護があったことが窺えます。
寺領規模


江戸時代前期頃



江戸時代後期頃

 開山上人の頃は、荘園制度が始まり盛んに農地の開墾が行われるようになった頃です。荘園制度によって勢力を増したのは、藤原氏で西暦1000年頃は国益の殆どを握っていたのでした。明王寺が造営拡大していった過程においても、儀丹上人が藤原家の縁故者であったことも、関係しているように思われます。明王寺が隆盛を誇っていた頃は、鎌倉時代から武田滅亡の頃までだったと言われています。その当時の伽藍配置は、本堂・金堂・開山堂・鎮守・西堂・東堂・五重塔の七堂伽藍が立ち並び、その周りには正光院・成就院・光明院・長福寺・阿弥陀堂・寶積院・宗寿院・金剛院が点在し、その他、教学坊と言って学僧を養成する坊が軒を並べていました。寺を護る守護として鬼門除けの東北に見目明神と南西に白山権現・北西に三宮司・南東に天満自在天をめぐらしていました。秋山境に上之坊、大久保境に大日堂と権現堂や鐘楼堂があり、近年、権現堂遺跡から出土した千個以上の泥塔は真言密教の供養に通じ、明王寺との関わりが大きかったことが解りました。その他、平林に抜ける道筋に方丈坊があり、平林地内には、明王寺別院として、儀丹上人開創で末寺の鷹尾寺が建ち、櫛形山山中には上人が修行した儀丹之滝があります。この他、小林境には角力場及び祭礼場があり源平の頃は有名な相撲場であった事が、「石投げ相撲」の話として伝わっています。
室町幕府の頃は御朱印高・20石4斗余り(米収穫量約3t・御朱印地面積約20反)、境内地は2069坪、山林縦12町半(1363b)横9町(981b)の他、熊野権現領地は朱印高5斗8升、境内地1050坪の広大な地域を有し、寺中山林諸役免除を許され、織田信長の禁制札(増穂町文化財)や、徳川代々の朱印状をみても手厚い加護があったことが窺えます。その後、武田家滅亡と同時に信長の兵火に会い、一山悉く消失し、直ぐ再興されましたが、江戸時代に二度の火災を起こし、古文書古記録等を失ってしまいました。
 その後、文久年間(1860年頃)に権現堂は社地が崩落し、社殿が破損したため、元もと明王寺の鎮守であったため、ご神体を完成したばかりの不動堂と合祭して神仏混淆としました。それから僅か8年の後に明治維新を向かえ、神仏分離政策のために熊野権現を祀ってあった明王寺不動堂を、舂米氏神熊野神社として建物と境内地を寄進し、不動明王は、庫裡に移して神仏を分けました。この時、廃仏毀釈などの諍いもなく、舂米区は境内地と社殿を譲与して頂いた見返りに、明王寺を永代に渡って守護していくことを快く約束したと、言い伝えられています。
 布施の庄を賜う 
  地蔵菩薩霊験記より
お金井戸の話
山梨の民話 116頁
 儀丹上人が伽藍造営中の時、時の帝である光仁天皇が悩み病に陥っていたとき、上人の法力に優れているを聞きつけて、都より勅使を下向させた。しかし伽藍建築中であるので、都に上がることを断ったが、ふただび勅使が訪れた際に、自ら使用している唐木の念珠を渡して、「この念珠は私と一体不二(一緒)ですから、帝の枕元に置いてみて下さい」と言いました。これを実行したところ忽ち病は全快しました。これは奇特のことであるとして、お布施として小井川の庄を明王寺に寄進しました。この時から布施の庄と呼ばれるようになりました。(解説抜粋)
 田富町布施地区あたり、小井川はJR身延線小井川駅に名前を残す。 
 
 平安時代の末頃、明王寺には坊が十二もあり、その中の教学坊という坊があったが、長い年月のうちに建物はつぶれ、井戸だけが残った。ある年その井戸のそばで夜な夜な踊りをおどるお婆さんが現れた。その年は不作の年で村の若者が、年貢の支払いに困って、井戸のところで水を飲み、お金がないこと呟いている内に寝入ってしまった。朝になると傍らに小判が落ちていた。若者は誰かが救ってくれたのだと感じて、そのお金で年貢を払い、一生懸命働いて、拾った小判と同額を井戸の所に返して置いた。このことは村の評判となり、お金に困った多くの人が貸してもらうのに重宝していた。ある時、横着者ので酒好きの男が、返す気など更々なくうそを付いて、井戸のところで沢山のお金を手に入れた。その男はお金を返さずに酒の飲み過ぎで死んでしまった。それ以来、井戸のところで踊りを踊るお婆さんは現れなくなり、代わりに夜叉のような髪を振り乱した老婆が現れ、村人を襲うようになった。困った村人達は明王寺の明善和尚に魂を鎮めてくれるように頼み、和尚はこの霊に妙真という戒名を付けて供養すると、それ以来現れなくなった。
(要旨抜粋)
雨乞いの事
 昔から巨摩の地は旱魃かんばつに苦しむ土地柄でした。この時、儀丹上人に請うて雨乞いを行いました。儀丹之滝の南方に西山の頂きに豹留尊を祀って、旱魃の年には西郡の民は登山して、雨乞いをしました。その時には「雨を賜え、祇園王、儀丹之滝の和上人」題目のように声高らかに雨乞いを行うと、雨が降ると言われています。それでもなお雨が降らぬ時は、明王寺に伝わる雨竜剣を以て儀丹之滝壺に投じると必ず雨が降ると言われています。

石投げ相撲場跡

時は平安時代が終わりに近づき、新たに鎌倉時代へと移り変わろうとしていました。西暦1190年前、今から814年ほど前の出来事です。

甲斐の国は貴族の藤原家と武家社会の源平(源氏と平家)の時代が盛衰する頃、第56代「清和天皇」の流れをくむ、清和源氏が国を治めるようになりました。 この「石投げ相撲」の伝説は時代を裏付ける、重大な出来事でありました。明王寺は熊野権現の別当寺(神宮寺)であり、小林境(現・増穂町消防団第二分団詰所裏)に祭礼場(祇園会)と角力場(相撲場)がありました。ここで行なわれる祭典相撲は西郡(にしごうり)の中でも有名でしたが、事件はこの相撲場で起こりました。 鎌倉幕府(1192年)を開いた源頼朝(みなもとのよりとも)は家臣の梶原源太景時(かげとき)に当時この地を治めていた加賀美次郎遠光(とうみつ)の二男である小笠原次郎長清(ながきよ)に仲人の儀を伝えるため使者を送りました。この使者はその帰りに評判の明王寺相撲を見るため立ち寄りました。ちょうど五人(七人)抜きを達した神田大学為時(ためとき)の勝ち名乗りを受ける時でした。神田大学為時は舂米の出であり、加賀美次郎遠光(とうみつ)の長男である秋山太郎光朝(みつとも)の家臣で筋骨隆々の大男でした。鎌倉武士の梶原景時の使者もまた神田大学に負けず劣らずの大男で、飛び入りで勝ち抜き戦を達したばかりの神田大学為時に勝負を挑みました。接戦の末、五人(七人)抜きを達した神田大学為時は疲れの末に敗れてしまいました。これを観戦していた見物客から物言いが出て騒ぎが大きくなり、勝ちを得た梶原景時の使者に対して四方八方から石が投げつけられました。これに怒った使者は太刀を抜きましたが、神田大学為時は剣の勝負を買って鎌倉使者を切り殺してしまいました。 後日、この騒動を聞きつけた源頼朝は、この他にも秋山太郎光朝の妻が平清盛の孫娘であり、源平の合戦への遅れたことなどが原因となり、大軍を率いて秋山太郎光朝の居城である北山城(雨鳴城)を攻め落とし光朝は28歳で自害をしました。 現在は11月3日の熊野神社祭典の際、御輿渡御(みこしとぎょ)の舂米東境の第一休み場として、お参りしています。石の祠(ほこら)と御輿を置く石の台があります。
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