「二重人格」 どっちの自分が本当の自分。両方?でも明らかに変わる瞬間があるのです。
           とりあえず、過去を暴きましょう

「髪の毛の長さ」

発信日
2000.12.3
発信者
三休(サンキュウ)
小学校時代は坊ちゃん刈り、中学は坊主刈り、高校時代はロングヘアー、大学時代は、坊主頭と長髪が、長い休みになると交互になっていた。就職してしばらくは六四に分けたりしていた。次第に寺の仕事をするようになってきた頃(32歳ごろ)から、スポーツ刈りをしていた。ちょうどその頃、「ギバちゃんカット」といって、俳優の「柳葉敏郎」がしていた、前髪だけがやや長いのをちょっと持ち上げて、カッコをつけていた。昔から髪の毛の量が少ないので、あまり短く切る事はしなかった。ナショナルのホームバリカンを長男が生れたときに購入して以来、妻を除く全員が家の玄関で髪の毛を切っている。3人兄弟の子供達は生れてこの方、一度も床屋にいったことが無い。全て私がスポーツ刈りフォームを使って、散髪代を浮かしてきた。ホームバリカンも今は2代(台)目で最初のものも使用しながら、最近では、子供達も色気が出てきて、「長めにしてくれ」のリクエストに答えて、スポーツ刈りから学生カットに変わり、わたしのカリスマ美容師度も少し上がってきたところである。私はと言うと、最初12mmのフォームを付けていたが、9mmになり今では6mmになっている。しかし前髪の部分は、昔のなごりから12mmとちょっと長くしている。これが、「坊さん一本にふん切れ無い証である」と自分でもよく理解できている。長髪からいきなり短くなったのでは無くて、10年以上の年月を掛けて次第に今の長さになったのである。昨年から高校の同窓会やらクラス会があって、25年ぶりに再会した多くの人たちは、高校時代、肩まで伸ばしていた髪の毛と、厚底ヒールの革靴履いていた、軟派な姿からは想像を絶する風貌に「おまえ誰だ」ときっと言いたかったであろうと、自分なりに思った次第である。
「服装.1
 (ファッション)」


発信日
2000.12.6
発信者
三休(サンキュウ)


中学3年の頃は、IVYルック(アメリカ東部地区の大学・フットボールリーグの「アイビー・リーグ」から名付けられた)というのが流行っていて、ブレザーは襟から前裾にステッチ(ミシンの縫い目)が入っていて、Yシャツはボタンダウン(襟にボタンがついている)綿100%、下着はBVDのTシャツ、ズボンは裾が細くなっていて、ダブルに折り返し、細い白のエナメルベルトをするのがカッコ良かった。靴は黒のバックスキンか白のエナメル(ベルトとコーディネート)でキメていた。(夏の制服にも勝手に採用していた)髪型は坊主頭を校則ぎりぎりまで伸ばしては、剃り込みを入れて、サイドバックにリーゼントを無理やり作っていた。僕の髪は細くて柔らかであったため、リーゼントの前髪を持ち上げるのに苦労していた。最初は「チック」(ポマードを固めてスティックのりみたいにしたもの)で形を作り、ヘアースプレーで固めて形を維持していた。この服装はふだつきの不良というのでなく、当時の学生としてはごく当たり前のスタイルだったのですからお間違えなく。なにしろアメリカ・アイビーリーグの大学生のファッションを真似たものですから・・・(ちょっと言い訳がましいですか?)世間から寺の息子としてどう思われていたのでしょうか?そんなことは知る由も無く高校になると髪の毛が坊主頭から次第に伸びて、色気も出てきたこともあって、「月刊Mensclub(略してメンクラ)」という本を買っては、ローカルだが、増穂町青柳の「ジロー」という洋服店に行っては、品定めをしていた。このファッションは「トラッド]と呼んで、「流行に左右されない、伝統的な服装のこと]をさしています。イギリスの伝統的な服装がカジュアルからビジネスやフォーマルに至るまで、ある程度統一されていました。今のビジネスファッションとちょっと似ているところがあるかな。その頃の生徒の革靴のほとんどはコインローファー(甲の所にコインをはさめるタイプ)だった。リーガルのが12000円位して、貧乏でケチな僕は、「HARUTA」の3800円ので我慢していた。これにアーガイルのダイヤチェックの靴下がまた決まったものでした。これにUCLAのマジソンバックを持てば、完璧だったかな。(これにもパクリ品があったね)
 なんか、IVYとトラッドがごちゃごちゃになってきてしまいました。きっとごちゃごちゃに着てたのかなぁ。この後、軟派な姿へと変身していきますが、長くなったので次回をお楽しみに!!

左の写真は、高校1年のころ、蓼科高原に校外学習で行ったときの写真です。高校1年の時の写真はこれしかないのです。
バックスキンの靴、スリムのダブルのズボンとやっと伸びてきた髪を持ち上げて、庇(ひさし)のようにしています。
「服装.2
 (ファッション)」


発信日
2000.12.11
発信者
三休(サンキュウ)


高校3年のころ
前髪は、鼻の辺まであった。パンタロンのスラックスにヒールの革靴を履いていた。(清水・美保の松原にて)
高校3年になると、学校の中でも上級生もいなくなり、自由を満喫していた。それまでは、応援部以外は目立った格好などしていると、番長を張っていた上級生のグループに、ご注意を言われるのでおとなしくしていたが、一変してプァッション雑誌から飛び出したような格好の奴らが溢れた。その内の一人が僕です。当時の歌謡界は、華やかでした。それまで演歌の大御所、森進一、五木ひろし、八代亜紀などが次々とヒット曲を出し、若者には、沢田研二や布施明、中村雅俊などのポップス系と、女では中三トリオの山口百恵、桜田淳子、森昌子、男では新御三家の郷ひろみ、野口五郎、西城秀樹など多くのアイドル系歌手がたくさんいました。その他、フォークソング全盛時代と松任谷由美(当時は荒井由美)やチューリップや甲斐バンドなどのニューミュージックという新たなジャンルもまじり、そのファッションが与える影響力は非常に強いものがありました。男のアイドル系は、靴のヒールを高くして足を長く見せ、ズボンはパンタロンで靴が見えなくなるくらい裾の広いもの、髪は肩まで、またはそれ以上伸ばし、長めのパーマをかけて、後ろから見ると男女の区別がつかないと言う状況でした。そのスタイルが我々の学校でも大ブレイクして、我が親友のM.S君(JACKさんの義兄)は真っ先にそのスタイルで学校にきました。当時、彼はかぐや姫の南こうせつに髪型やめがねが似ていることから、その服装に結びつき、ますます南こうせつにそっくりとなり、有名になっていったのでした。そんな僕は、親友の影響をもろに受け、トラッドファッションからあっさり足を洗って、軟派路線をした走るのでした。その裾の広い長めのズボンは家の中では、モップのごとく裾を引きずりながら歩いていました。大学2年のころは、スリムのジーパンが流行って、一転、ズボンを履くときに裾から足がやっと出るくらいに、詰めて履いていました。銭湯では脱ぐときに座るわけにも行かず、片足を上げてはよろめきながら脱いでいました。(かかとを通るときが一番難儀でした)
その後は、トラッドの進化系ニュートラディショナル略してニュートラの落ち着いたファッションに戻ったり、夏にはハマトラという、横浜や横須賀が発祥の地であったか、アメリカの水兵さんのスタイルをまねて、ハマカラーというかぶりの綿シャツに大きなバックプリントが付いてるものと白いスラックスにデッキシューズと言うスタイルをしていました。その後、社会に出てからは、チノパンを履いたり、ゴルフウェアーがベースになったブランド品の服装が多くなり、ファッション的流行も左右されずに、現在に至っています。少し前までは、過去に買ったものを何年も繰り返し着ていましたが、今年に入ってから「中年ぶとりの傾向になり、まずズボンの類がウエスト8cmアップとなり全滅!Yシャツも首周りや肩のところがきつくなって、着れなくなりました。今までは、Mサイズで良かったものが、全てLサイズに変わってしまいました。最近は、お坊さんとしての自覚が出てきた性もあって、ジーパンなどは余り履きませんが、時にカジュアルな姿で表に出たときなどに、信者さんなどに会うと気まずい気持ちになってしまいます。    *現在、アメリカから情報発信中、こちらからどうぞ
左から影響を受けた、新御三家、野口五郎・郷ひろみ・西城秀樹。
真ん中、ハマトラと呼ばれていた、ハマカラーのシャツに白のパンタロン、靴は見えないけれど今の厚底サンダルとおなじもの、高さ10cm、北海道にM.S君と行った時の写真です。(こうふく駅にて)
右はスリムのジーンズ(昇仙峡・覚円峰をバックに)
「音楽 1」

発信日
2000.12.15
発信者
三休(サンキュウ)

題名をなぜ「音楽」としたかと言うと、保育園から今日に至るまでの長い期間は、様々なジャンルの歌を一通り、歌ってきたからだ。しかし小さいころの歌はもっぱら、教科書にある歌を歌ったのがほとんどなので、ここからは、記憶に残っている転機となった歌を紹介していこう。
 小学校6年生の修学旅行で、バスの中で前から順番に歌を歌うことになった。僕は何を歌ったか良く覚えていないが、クラスの中で学級委員長をしていたやつが「帰ってきた酔っぱらい」を歌ったのだ。僕はその時、初めてこの歌を聴いた。今まで聞いたことはなかった雰囲気の歌だった。テレビで夜遅くやっている歌番組で歌っているという。僕はそれまでテレビから聴いた歌は、舟木一夫の「高校3年生」やグループサウンズ全盛時代の名曲「ブルーシャトー」とその替え歌『森、とんかつ、泉、にんじん、カーこんにゃく、まれ天丼」(ちがってましたっけ)などは良く歌っていました。そんなところに先ほどのユーモラス且つ素朴な旋律の歌いやすい歌を聴き、これがフォークソングとの出会いの曲でした。その後「ケメ子の歌」「走れこうたろう」「受験生ブルース」などのおもしろい歌が流行ったりしていました。
 グループサウンズが次第に解散して、中学2、3年のころは、歌謡界はパッとしませんでした。小川知子・黛ジュン・いとうゆかりなどや、後は演歌歌手がいっぱいいました。そのころは、ラジオを聴く機会が多く、当時YBSラジオ制作の「テレホンリクエストナイター」と言う放送が大ブレイクして、リクエスト曲を一生懸命ダイヤルを回しました。繋がると「△△の曲を増中3年6組の○○さんへ ××より」なんてやっちゃったもんにゃー、次の日、学校で大騒ぎ。結構いたずらやお節介でやっていた。当時はプッシュホンなど無かったから、一回一回かけ直さなければならなかったので、電話器の横にラジオを置いて、掛けながら聞いていました。その頃は洋曲(POPSと呼んでいた)がヒットしていて、歌手ではビートルズは別格として他に、サイモン&ガーファンクル、カーペンターズ、ミッシェル・ポルナレフ、ドーン、オリビア・ニュートン・ジョン、ビージーズ、CCRなどなど、歌は「コンドルは飛んでいく」「戦場に架ける橋」「「サインはピース」「ナオミの夢」「悲しき願い」「ノックは3回」「Yesterday once more」こちらもなどとなど、いっぱいありました。この他に、BGMやサウンドトラックも結構流行った。ポールモーリヤの「マルタ島の砂」寝るとき聞くと最高だったし、リチャード・クレーダーマンの「渚のアデリーヌ」(バックで流れている曲)は、ピアノソロだけれど旋律が次第にアップしてきて、落ち込んだときに聞くと最高に元気になれる。僕は、英語が苦手だったから歌えない。歌っても適当の発音をしていた。(つまり聞こえたまま、音で)あのころの曲をもう一度全部聴いてみたい気がするけれど、1972年ころのヒットメドレーなんて都合のいいアルバムなんか無いでしょうかねぇ。あったら是非教えてください。
つづきは高校時代から
PS.「曲の題名をクリックするとその曲が流れてくる」と言った、良い方法をご存じの方は教えてください。
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「音楽 2」

発信日
2001.1.5
発信者
三休(サンキュウ)

 余りにも過去のことなどで、思い出しても年数が合っていないところもあると思いますが、許して下さい。
前回話した、フォークソングの出会いで、今ひとつ印象に残っているのは、フォークルセダーズの「風」であったと思います。『♪人は誰もただ一人、旅に出ぇてー♪』という、歌い出しのこの曲は中学1年の時に学校の授業の一環で、近くの映画館に行ってみた映画のテーマソングでした。フォークソングはイコール、ギターでもありました。ちょうど今、ストリートミュージシャンが、ギター片手に演奏している光景と同じものでした。ぼくも山日新聞の「赤電話」のコーナーで見つけた「ギター譲ります」のお宅に電話して求めました。それと同時に買った「初歩のギター教室」というレッスン書にはギターの弾き方が「アルペジオ」確かそう言ったと思いますが、メロディーを弾く人ようの解説書であったので、ベース中心のフォークソングには全然合わなくて、直ぐ挫折したのを覚えています。その後、フォークソングは高校3年から大学2年の頃に掛けて爆発的なヒットとなりました。フォークの神様と呼ばれた岡林信康など、心の染みる歌や恋愛失恋など恋の歌、青春のせつなさを歌ったものなど、レコード売り上げ、特にアルバム(LP)の売り上げは、井上陽水を筆頭に沢山いました。又、それまで、外国のPOPSに押されていた歌謡界は、ティーンズの若いアイドル歌手が一般公募によって、「スター誕生」などから山口百恵などや郷ひろみなど沢山の同世代の人達が、歌手デビューしていきました。これによって「服装2」のところでも話した、ファッションや思想、言語など幅広い影響がありました。それと同時に、映画の影響を受けて、ジョントラボルタ主演の「サタディーナイトフィーバー」をきっかけに、ディスコブームがありました。外国の歌では、ベイスティーローラーズ「サタディーナイト」やアバなど、ロックが結構流行っていました。1985年代ごろからカラオケブームが始まり、今まであったジュークボックスからカラオケでエコーを利かして、歌手になりきって歌えるようになり増した。「1億総歌手時代」と呼ばれるようになり、家庭用カラオケ機器も出回って、演歌に限らずニューミュージックやあらゆる歌が誰でも歌える時代へと移っていきました。僕は、この70年代のフォークソングや演歌、ニューミュージックの歌以降、音楽から離れてしまったので、歌える曲もこのころの歌が主です。そんなわけで、1990年以降は、日本の歌なのに、題名だけでは、どこの国の歌か解らない曲が増えてきて、英語がまるっきり苦手と来ているので、カラオケでも歌うことも出来ず、又、あこがれや心に残る歌手もあまり現れなくなって、カラオケでは接待用に古風な演歌やフォークソングを歌うことが多くなってしまいました。
最近のこと
2001.1.21
発信者
三休(サンキュウ)
ちょっと過去のことは置いといて、今のことをちょっと。
ここ11ヶ月、サラリーマンから遠ざかった生活をしていました。本堂再建の話を軌道に乗せ、奉賛金のお願いに回ることで時間が必要であったからです。昨年2月までは親戚の経営する町工場で、工員として働いていました。役職は「常務」であったけれど、年々業績が悪化して、退職する直前は部下が1人になってしまいました。その1人の部下(40歳)をリストラするという話が出たので、ここは自分が犠牲になろうと志願してやめました。お陰で1年間収入は半減し、周りの人間には、だいぶ心配をかけてしまいました。しかし、この間、何もしていなかった訳ではありませんでした。自分なりにやることはやったつもりでいます。しかし、寺の仕事なので、個人の収入には、ほとんどなっていません。所詮、寺の収入は自分のお金ではないので、宗教法人の会計にまわってしまいます。したがって、住職としての給料をもらって初めて、自分のお金となるのですが、そういう形でもらったことは一度もありません。よく「坊主丸儲け」と言うが、僕にだけはその言葉は言ってもらいたくありません。それに檀家さんが30軒に満たない寺院のほとんどは、寺院収入がほとんどないといって過言ではありません。特別に何かしていない限り、檀家の葬儀だけでは、1年に1〜3回、それに法事が年間、10件あったとしても、支出が交際費、修繕費や改築積み立てなどを払っていくと、持ち出しになることのほうが多い。つまり、職業ではなくて、奉仕と言って良いくらいです。だからサラリーマンをしなければやっていけないし、小さなお寺は後を継ぐ人がいないで、その内、本堂でも潰れてしまうと、廃寺となってしまう。これからはそんな傾向が強くなる予想が僕にはあります。まず、過疎の地域です。今は老夫婦が住んで集落を形成し、そこに1ヵ寺があるということが、山間地にはよくあります。後10年すれば、住職がいなくなり、兼務寺(他の同宗派の住職が管理する)となる。すでに南巨摩郡の山間地には、そうした傾向が多く、20年すれば、その土地に住む人もいなくなり、本堂が荒れて、いずれ潰れてしまいます。
明王寺も大正から昭和10年ごろまでは、無住(住職が住んでいない)の寺でありました。そのため、寺は荒れ、檀家は住職のいるよその寺に移り、荒廃の一途をたどっていました。先代の住職が信徒寺として、復興したお陰で現在の形を作っています。
今年は、無謀にも「本堂再建」を計画し、たった10軒の檀家と親戚の支援を中心に、300軒ほどの信徒さんのご浄財を頼りに目標金額に達し得ない状態で、四苦八苦しています。

話がそれましたが、寺を維持し家族を養っていくには、どうしてもサラリーマンをしていかなければ、成り立たないのが現状です。独立して経営することがあれば、またそれも良いかもしれませんが、なかなかチャンスと勇気がありません。それで、再就職の口がありましたので、16日から勤めています。業種は葬祭業の一翼とコンピュータの企画業務です。寺の仕事と両立できる条件に合致して、就職しました。

サラリーマン生活は二重人格のもたらす原因の1つであり、衣と袈裟をつけた自分と、サラリーマン生活をしている自分の、ギャップが大きいほど、ため息も大きくつくのであります。「あぁあ、一体俺は何をやっているんだろー」と自問し、その後に「生きるためなのだ。しょうがない(仕方がない)」と諦めるのです。
これだから世の中は良いほうに向かわないんだなと思います。羽振りの良いお坊さんの中には、仏教の教えで人を救おうとか、布教をしながら一人でも多くの人が幸せになれればとか、困っている人の事を考えなくても、檀家の力で生活していけるのですから、うらやましいです。サラリーマンのつらさも解らないし、一般人の気持ちも理解できない、そんなお坊さんも中にはいます。そうした一部のお坊さんと同様に、貧乏寺院のお坊さんを見てほしくありません。
愚痴ともなりましたが、僕は僕の使命を志として、後、何年現世にとどまる事が出来るか解りませんが、都合の良い生き方を選択しながら、ふたつの道を歩んでいくつもりです。